南紀巡礼 2004春 -3日目-

今朝も朝5時にはちゃんと起床。と言うか、昨日の酔いが残っていたためか5時前には目が覚めた。入浴可能時間の5時になるのを待って、大浴場へ。風呂場の窓から差し込む朝日が眩しく、今日もとっても良い天気。朝風呂を浴びてサッパリしたところで、せっかくだから早朝参拝しようと、朝食前に再び内宮へ。

内宮の古殿地(心の御柱跡に建つ覆屋)
内宮の古殿地(心の御柱跡に建つ覆屋)

まだ朝の6時を回ったばかりの時間だというのに他にも数組の参拝者がいて、昨夜のように貸し切りとはならなかったのは、ちょっと残念。でも、朝の空気は澄んでいてとても気分が良かった。
神宮の正宮は周囲を板垣に囲われており、一般人にはその中を伺い知ることができない。けれど今の正宮のすぐ隣りにある古殿地ならば、神宮の中心とされる「心の御柱(しんのみはしら)」が立つ場所を囲うようにして建つ小さな覆屋を、垣間見ることができる。

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伊勢神宮 内宮3: 34.456040, 136.726055
花の窟2: 33.880535, 136.093483

 伊勢から熊野へ 

宿に戻って朝食を済ませ(いつものごとく、ご飯のおひつはおかわり)、早々に出発する。時刻は8時を回ったところ。すぐに伊勢自動車道にのり、まずは昨日と逆コースで勢和多気ICを目指す。そこからは、国道42号でひたすら熊野へ。けれどこの国道42号で紀伊長島に至るまでの区間は、全く不愉快な道。一部には追い越し用車線を備えた登坂車線があるものの、大半は片側が1車線だけの追い越し禁止区間。さらに通行量も多くて時折大型トラックがいたりもするもんだから、とっても流れが悪い。以前に来た時も、確かこの道は流れが悪かったような気がする。もし次の機会をと言うことになったらば、この道は外すルートを必ず選択したい。

紀伊長島から先は、国道42号も車の流れも良くなってきた。熊野市に入ると国道42号は、なだらかな海岸線が25kmに渡って延々と続く「七里御浜(しちりみはま)」に沿って走るようになる。その時点で、伊勢を出てから2時間半が経っていた。

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花の窟3: 33.879412, 136.092936
産田神社2: 33.880820, 136.078312
熊野速玉大社2: 33.732116, 135.984616
神倉神社2: 33.723055, 135.982075
那智の滝2: 33.675331, 135.887618
熊野本宮大社2: 33.841049, 135.772820
湯の峰温泉2: 33.824054, 135.754319

【 花の窟 】(地図中の「9」)

花の窟
花の窟

今からおよそ20年近く前に、初めて南紀へのバイク遠征を敢行したとき(当時はHONDA CBR400F3)、海岸線の眺めの良さに誘われてお昼を食べに立ち寄った店が、七里御浜と国道42号とを隔てる堤の上にかつては建っていた。その時は気付かずに食事をしただけで素通りしてしまったのだけど、かつてその店があった場所と道路を挟んですぐ向かいにあるのが、本日最初の目的地である「花の窟(はなのいわや)」。

初めて南紀に来たときも何かの縁があったのかもしれないが、最近南紀に来ると、たいがいはここに立ち寄っている。御神体は、海岸からも見える高さ50m以上の巨岩。そしてここは、日本創世神話にでてくる伊弉冉尊(いざなみのみこと。←どうでも良いことだけど、こんな漢字が一発で変換されたのには驚き)の墓とも言われている。古くは日本書紀にもその名が出てくるほどであり、信仰の対象としての歴史は古い。けれども、社殿を建て神社としての体裁を整えたのが、実は明治以降のこと。

 産田神社 】(地図中の「10」)

産田神社
産田神社

花の窟で参拝を済ませた後、さらに国道から離れて住宅街の中を、カーナビを頼りに移動した。近くにある「産田(うぶた)神社」へと向かうためである。南紀のガイドブックにもめったに登場しないこの小さな神社は、花の窟とはワンセットとも言える神社。そもそも花の窟に葬られた伊弉冉尊の死因は、火の神である軻遇突智(かぐつち)を産んだ際の火傷であるとされている。そしてその軻遇突智を産んだとされる場所が、今は産田神社となっている。実は、花の窟に前回来たときに地元らしい人から、産田もぜひにと熱心に話を聞かされていた。その時は時間の余裕も無くて寄らなかったことから、今回初めての参拝となった。ちなみに、死者の世界である黄泉(よみ)の国と現世との境とされる黄泉比良坂(よもつひらさか。余談:山岸凉子の作品にも同名タイトルのものがある)も、この近所にあるらしいが、今回はそこまで手が回らなかった。

【 熊野速玉大社 】(地図中の「11」)

熊野速玉大社
熊野速玉大社

再び国道42号に戻って七里御浜沿いに進み、熊野川を渡ると、新宮(しんぐう)市に入る。ここ新宮市には、その名のとおりに新宮、すなわち熊野三山の一つである「熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)」がある。この新宮の社殿は、後で参拝する熊野本宮大社の古色蒼然とした社殿とは対照的に、丹塗りが施されて赤白のコントラストがとっても綺麗。

また、神社をお参りするとたいがいの所で交通安全ステッカーを購入するのだけども、ここ新宮のものがこの辺りのものの中ではデザイン的には一番のお気に入り。ただし、御利益も一番かどうかは...

ちなみに、新宮という呼び名の由縁には諸説ある。一つは、この後で参拝する熊野本宮大社が本宮だから、それとの対比で新宮と呼ばれるようになった、という説。あるいは、近所の山の中腹にある神倉(かみくら)神社に元々は祀られていた神さんを、平地のこの地に招いて祀るようになったことから、神倉神社を元宮と呼ぶのに対して、ここが新宮と呼ばれるようになった、との説。いずれにせよ、本宮(熊野本宮大社)の方が新宮(熊野速玉大社)より古くて格式が上だ、とかいうことはないので誤解の無きよう。

【 神倉神社 】(地図中の「12」)

新宮の参拝を済ませたあと、ここ新宮市内ではもう一ヵ所参拝したい場所があった。それが既に名前のでてきている神倉神社。けれど問題が一つあった。神倉神社には駐車場が無い。そこで新宮を参拝した後、まずは新宮よりも神倉神社にほど近いところに在る観光地の「浮島の森(うきしまのもり)」に移動して、そこの駐車場に車を止めることにした。(後で家に帰ってからデジタル地図で測ってみたら、神倉神社までの距離は、どちらからでもそれほど変わりが無かった。チョット失敗)

住宅に取り囲まれた浮島の森
住宅に取り囲まれた浮島の森

この浮島の森は、市内の住宅街の中にあって、70m四方ほどに四角く区切られた沼の中に、森状になった植物群落が浮いているという国の天然記念物。駐車場に車を止めさせてもらう手前、拝観料100円を払って中に入ってみたけど、さっさと出て来た。なぜなら、浮島を囲う幅1mほどの水の帯にはほとんど流れが見られず全く澱んだような状態で、あまりきれいじゃない。さらに浮島自体も、植物が生い茂って日差しを遮り、その中はちょっと不気味な感じ。浮島の森を取り囲むようにぎりぎりまで接近してきている周囲の住宅地の人々も、結構ここを迷惑がっているんじゃないかと思われた。

浮島の森を出て神倉神社に向かって歩き始めたら、突然にどこからか、戦争映画に出てくる空襲警報のようなサイレンの音。時計を見るとちょうど正午。どうやら正午の時報らしい。でも、こんなサイレンで時刻を告げる町が、今どきあるのかと驚かされた。

10分ほどで歩いて、神倉神社の入口に着いた。ただしこの入口からは、538段あると言われる崩れかけた急な石段をさらに登らねばならない。今回の旅で、初日は三輪山、昨日は大台ケ原、そして今日はこの石段かぁ〜っ。半分ヤケになりながら、覚悟を決めて登り始めた。毎年2月にここで行われる「お燈まつり」のときには、この石段を約2千人もの人が松明を手にして駆け降りるそうだけど、それがとても信じられないくらいに危なっかしい石段。まつりでは、足を滑らせ転倒して大けがをする人が出たりしないのだろうか、などと考えながら一歩一歩慎重に登り続けた。

神倉神社(ゴトビキ岩)
神倉神社(ゴトビキ岩)

そして登りきった所にあるのが、ゴトビキ岩と呼ばれる巨岩の御神体。この岩は、はるか昔に神々が降り立った場所だと言われている。また、ここに祀られている高倉下命(たかくらじのみこと)なる人物は、神武天皇東征の折りに神武軍の道案内をしたとも言われている。ここに立つと、新宮市内および海が良く見渡せる。逆に言えば、そうした場所からもこの岩が良く見えるということである。この岩が「目印」としての大事な役割を果たした何らかの大きな事件が、歴史的事実として実際に起きていたのではないかと思えてならない。

ところでここ新宮市は、中国古代の秦の時代に、始皇帝が不老長寿の薬を探すために派遣した徐福なる人物が漂着した場所だとも言われる。市内には、今回は寄らなかったが徐福の墓碑などもある。そうした伝説が真実かどうかは別として、伝説の影には何らかの歴史的事実が隠されているもの。この地が古代から、黒潮の流れにのった人々の交流において、重要な役割を果たしたことは間違いないものと思われる。

神倉神社への参拝を終えて町中に降りてきたところで、昼は軽くていいやと、目に付いた蕎麦屋に入ってざる蕎麦を注文した。けれどこれが大失敗。店の外観は一見まともなんだけど、店をきりもりしてたのがヨレヨレの老人。ちょっと垣間見えた調理場で、蕎麦を茹でるのに使ってたのがこれまた小さな鍋。当然、出されたざる蕎麦は不味い。ちなみに店は狸の置物が目印で、店名も「たぬきや」という。間違っても誰かがこれから行くことのないよう、あえてここに記した。

さて気分を取り直して、次は那智の滝へと向かう。けれどこの頃から、空には極く薄い雲が広がり始めた。曇り空と言うほどではないのだけれど、それまで真っ青だった空が、若干白っぽくなってきた感じ。雨男の面目躍如たるもので、那智の滝の水の精と共鳴して雲を呼んでしまったのだろうか。などと考えつつ国道42号を走っていると、いつからか1台の大型ツーリングバイクがZ3のすぐ後ろを追走していた。BMWのR1200LTのようだった。ずっとこのままの那智の滝まで一緒に行けたらと期待していたが、那智の滝への国道42号からの分岐点で、あっさりそのバイクは別の方向へと走って行ってしまった、残念。別れ際にナンバーを見ると、大阪ナンバーだった。ソロツーリングだったのだろうか。

【 那智の滝 】(地図中の「13」)

那智の滝
那智の滝

那智の滝へは、新宮市からは30分ほどで着いた。滝への入口近くには無料の公共駐車場があるが、そこには5台ほどしか止められないので既に一杯。しょうがないから、すぐそばにある民間の有料駐車場に車を止めた(ちょっと止めるだけでも駐車料金500円とは、暴利ダ!)。

滝への入口から滝壺の間近までは、杉木立に囲まれた石段の参道を降りて行く。そこには、熊野那智大社の別宮とされる飛瀧(ひろう)神社があり、厳密に言うと那智の滝を御神体としているのはこの飛瀧神社。でもまぁ、人が決めた神さまの分担なんかはどうでもよいことで、「那智」ではやっぱりこの滝こそが、ありがたさの中心であると思う。

注連縄が張られた滝の注ぎ口
注連縄が張られた滝の注ぎ口

ところで、メジャーな観光地でもあるだけに、回りには団体観光客も多くて興ざめな気分になる。そこで飛瀧神社で300円払って、滝壺により近い場所に設けられたお滝拝所にまで行く。そこまでは団体観光客も来なくて、観光地としての喧騒から開放される。そして滝の音だけが大きく鳴り響く中、風の向きによっては滝の水しぶきを浴びながら、神聖な場所に来たことを実感させてくれる。ちなみに、日光の華厳の滝、茨城の袋田の滝、そしてここの那智の滝とを合わせて、日本三大名瀑と呼ぶそうだけど、神聖さの点ではやっぱりここ那智の滝が一番のように思える。

なおここ那智には滝そのものの他に、熊野那智大社や青岸渡寺と言った社寺もあるけど、今回は寄らなかった。それらは以前に参拝したことがあったし、滝そのものに参拝すれば「那智」としてはそれで十分だろうと思えたから。それに、車を止めた場所から熊野那智大社や青岸渡寺までは結構な距離をさらに歩いて登らねばならず、それが嫌だったしネ。

那智の滝を参拝し終えたときに、時刻は午後2時を回っていた。この後は、熊野三山の残る一つ、熊野本宮大社を目指す。そのためにまずは国道42号で新宮市まで戻って、そこから熊野川沿いに国道168号を北上した。国道42号は車の通行量も多く、渋滞はしていないものの楽しめる道ではなかった。けれど国道168号からは、ハイスピードで巡航できる快走路であった。遅めの車に時々追いつくことがあっても、余裕で追い越しが可能だった。途中、逆方法に進むパトカーとすれ違ったときには、ちょっとドッキリ(それだけスピードを出してたってことか?!)。

【 熊野本宮大社 】(地図中の「14」)

奉納旗の群れは不気味
奉納旗の群れは不気味

熊野本宮大社」には、午後3時半に着いた。鳥居脇の駐車場から本宮の社殿へは、石段の参道を登っていく。鬱蒼とした木々が日差しを遮るこの参道には、人の背丈ほどの大きさの奉納旗が数多く風にはためいて、まるで大勢の人がうごめいているようでもあり、ちょっと不気味。

熊野本宮大社
熊野本宮大社

参道を登りきると本殿に至る神門が見えてくるが、そこに掲げられていた垂れ幕にはちょっとビックリ。なによりそこに書かれた言葉が印象的。「甦る日本!!」「人生を癒す熊野本宮」今どきこんなキャッチコピーのようなものを掲げる神社が、他にあるのだろうか。歴史と由緒のある神社にしては似付かわしくないようでもあり、はたまた人々を元気づけるものとしてこれはこれでありかなと思ったりもする。まぁどっちでもいいかな、と思えてしまうのは、今回本宮に来た一番の目的が、ここの本殿に祀られた神々への参拝ではなかったから。

でもひとまずは本殿へのお参りを済ませ、恒例となっている交通安全ステッカーを買う。楕円形をしたそのステッカーは、サッカー日本代表チームのシンボルにもなっている三本足の八咫烏(やたがらす)を中央にして、「本」と「宮」という字だけがそれを挟み込むように配置されているという、いたってシンプルなもの。でもせめてあと「熊野」という文字くらいは入れて欲しい。もしこのままこれを車に貼ったりしたら、ドライバーの名字が本宮(もとみや)だと思われちゃうんじゃないか?

さて今来た参道を戻って、すぐそばを流れる熊野川の河岸へと向かう。その場所は、今ではそうは見えないが、かつては川の中洲だったとのこと。そこが今回の本宮における一番の目的地、大斎原(おおゆのはら)である。その入口には、平成12年に完成したばかりの高さでは日本一(34m弱)と言われる大鳥居が建っている。今回の旅の初日に訪れた大神神社の大鳥居もでかかったけど、それよりもさらに1mほど高いとのこと。ではそんな大鳥居の奥には、一体何があるのか?

大斎原
大斎原

実は何も無い。いや正確には、木々に囲まれた広場のような場所があり、小さな石の祠が2基建っている。それだけである(星野之宣「宗像教授伝奇考」に書かれていた、秘密の地下祭祀場への入口となる三角形に並んだ三つの石、なんてのも当然無い。いや、ちゃんと探せばあったのかな?)。

しかしこの大斎原こそが、熊野本宮大社が本来建っていた場所なのである。

旧社殿の跡に建つ石祠
旧社殿の跡に建つ石祠

それもそんなに昔の話ではない。明治の初めまで熊野本宮大社の社殿は、今では大斎原と呼ばれる熊野川の中洲に建っていた。それが明治22年に起こった川の大洪水で押し流されてしまったために、川から離れた高台にある今の場所へと移った。けれど千年以上の長きに渡って川の中洲にあっても無事であったのに、明治になって初めて大洪水にみまわれたというのはなぜか。それは、全くの人災であったようだ。つまり、明治になってから川の上流の木々を急に伐採し過ぎたため、水の保水力が落ちてしまい、それまでは無かったような大洪水が起こってしまったのだという。人の愚かさの現れか。

社殿は移り、今は小さな石の祠を残すだけであっても、大斎原は今も人々の信仰の対象となっているようだ。そのことを示すかのように、大斎原のそこかしこには、次の言葉が記された看板が立っていた。
お願い 一切、境内地にて無断で、お酒・お塩・奉献物を、各所にお供えしたり撒き散らすなどを固く禁じます。 熊野本宮大社
つまりこの大斎原の地を信仰の対象として、そうした宗教行事を執り行おうとする人々が、今も少なからずいるということなのだろう。

【 湯の峰温泉 湯の峯荘 】(地図中の「15」)

小栗判官が病を癒したとされる“つぼ湯”
小栗判官が病を癒したとされる“つぼ湯”

大斎原を出た後は、今日の宿である湯の峰温泉へと向かう。と言っても、本宮からは車で走ればすぐそばの場所である。
湯の峰温泉に着いても宿へとはすぐに向かわず、温泉街の中心部で一度足を止めた。ここ湯の峰温泉は、「小栗判官・照手姫(おぐりはんがん・てるてひめ)」の物語で有名。仏教説話とも言われるこの物語を知ったのは、10年以上前の小劇場演劇をまだ見始めだった頃、横浜ボートシアターという劇団が仮面劇として演じたものを、NHKの名番組「芸術劇場」で見たから。今これを書きながらInternetで調べてみたら、劇団は今も存続していて(以前のように横浜の運河に浮かぶ木造船上での公演はしなくなったようだけど)、紀伊国屋演劇賞をも受賞したこの演劇は今も繰り返し上演され続けているというから驚き。湯の峰温泉は、物語の中で主人公の小栗判官が体を癒した(と言うか再生させた)温泉であり、その際に浸かったとされる「つぼ湯」が、共同浴場として今も残っている。

記念の写真を撮った後は、今夜の宿である「湯の峯荘」へと向かう。この宿は、温泉街中心部をちょっと外れた高台にある。温泉街中心部は、川沿いの狭い場所に旅館や民宿が建ち並んでいて、もしそこに宿をとっていたら、外れにある共同駐車場に車を止めさせられることになって、ちょっと不便だったかも。でもここ湯の峯荘は中心部から外れているおかげで、敷地がゆったりとられており、駐車場はもちろん泊まった部屋も広かった。この宿の選択は正解(宿代も中心部の宿に比べて安かったしね)。そうしたことのせいか、同じ宿には大阪方面からの8人ほどのバイクの一団も来ていた。

その日は、ひと風呂浴びてから、広々としたロビーでくつろいでいる間に、生ビールのジョッキ(中だけどネ)を2杯も空けてしまった。その後の夕食の時間にも、さらにビールを2本。よく飲むこと。