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南紀巡礼 2004春 -4日目-

もう毎日の習慣となってしまったように、今日も早起き。昨日の那智以来、空には極く薄い雲が広がっているけど、天気予報では回復するとのことなので気にしない。朝食(温泉粥はちょっと×)を食べて、宿を出たのが朝8時ちょい過ぎ。

【 玉置神社 】(地図中の「16」)

そして本日最初に目指したのが、湯の峰温泉(地図中の「15」)からは直線距離にして13kmほど北北東に位置する玉置山、その山頂近くに鎮座する玉置(たまき)神社。玉置神社の名前は、熊野三山や伊勢と言ったビッグネームに比べれば、全国的にはまだ全然知られていないと思う。かく言う自分自身が、今回の南紀行きを計画するまでは、気に留めたことも無い名前だった。けれど調べてみると、その筋ではとっても有名なパワースポットらしい。
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湯の峰温泉から先ずは本宮まで昨日走った道を戻り、そして本宮からは国道168号を30分ほど北上して十津川温泉に至る。さらに十津川温泉からは、カーナビを目一杯拡大して進入路を見つけ、舗装されてはいるが大半が幅1車線半ほどしかない狭い曲がりくねった山道を20分ほど上り、ようやく玉置神社の駐車場に着くことができた。その時、時刻は午前9時になっていた。湯の峰温泉から直線距離では10kmちょっとしかないのにネ。

神樹の風格を備えた巨木
神樹の風格を備えた巨木

駐車場から社殿までは、しばらく山道を歩かねばならない。道は最初なだらかだったが、途中からは下り坂となる。下りは楽で良いが、その分を後で登って来なければならない。それを考えると、昨日までの連日の山歩きでの苦労が頭をよぎり、ちょっと憂うつに。

そうこうするうちにしばらく道を下ると、注連縄の張られた巨木が見えてきた。写真では対比するものが無いので判りにくいだろうが、ともかくデカイ!!! ここ玉置神社は、杉の巨木がたくさんあることでも有名。その中でも神代杉と呼ばれるものは、樹齢3千年と言われているそうな。樹齢2千年を越すもののざらで、写真の巨木はそうしたものの一つか?

さらに進むと、ようやく玉置神社の社殿が見えてきた。ガイドブックによれば5月頃はシャクナゲが花をつけて美しいとあったが、今年は季節が早く駆け抜けてしまったのか、もう見ごろは終わっていて、ちと残念。

玉置神社本殿
玉置神社本殿

本殿で参拝を済ませ、辺りを見回すが人影は無く閑散としている。参拝記念に交通安全ステッカーなどが欲しいと思って、社務所を探したが見当たらない。たいがいの神社だと、参道から本殿に至る途中にあるのだが、今来た道沿いにはそれらしい建物は無い。本殿脇の方のちょっと離れた所には、木造の古びた建物が見えるのだが、窓は閉じられカーテンも閉まっていて、人がいそうな気配は無い。仮にその建物が社務所であっても、こんな山奥の神社じゃそれほど参拝者も来なくて、なおかつ平日の朝早い時間だから、社務所は開けていないのかな、などとも考えたりした。

手洗いだけでもと思って案内板を頼りに探し歩いて行くと、なんと先ほど見えた古びた建物(後で知ったが、今からちょうど二百年前に建てられた国の重要文化財だそうな)が社務所であって、なおかつ本殿側とは反対側の軒先には、お札などを並べてちゃんと営業?しているではないか。
実は社務所の正面は、本殿とは全く反対の側であったのだ。なぜそんな変な配置になっているのか? 社務所正面の先には、古来からの修験者たちのための大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)が延びており、本来この神社に来るための正面は、今歩いて来た駐車場の側ではなくてそちら側であるのかもしれない。

社務所では、恒例の交通安全ステッカーのほかに、「弓神楽(ゆみかぐら)」と名付けられた物をいただいた。この弓神楽は、高さが10cmほどで、木の台座の上にミニお札とミニ破魔矢のようなものを立てた形態をしている。ちょうどウチの神棚に載せるのにジャストサイズで、今回の旅でゲットした記念品としては一番のお気に入り。

玉石社への登拝道
玉石社への登拝道

その後、すぐに駐車場へは戻らず、神社の裏手?からさらに山頂方面を目指した。別に山登りがしたかったと言うわけではない。玉置神社の名前のもとになったとされる「玉石社」と呼ばれる社をお参りするため。山道は急な登り坂で、登るのはとってもキツイのだけれど、神域の中を歩かせてもらっているという雰囲気十分の道でもある。
やがてたどり着いた玉石社は、周囲を板垣に囲われた、広さ二畳ほどの小さな社である。その中には3本の杉の木が立ち、その根元を埋めるようにして白い玉砂利が敷き詰められている。

玉石
玉石

その少し奥まったところに、丸い石の表面らしき部分がわずかばかり地表に顔を出している。この丸い石こそが、玉石と呼ばれる御神体であるらしい。今、丸い石と書いたが、全体の形や大きさは、土の中に埋もれていて定かではない。古来ここには、聖なるものが埋められているという話が後を絶たないと言う。そうした話の一つには、映画インディジョーンズで有名になった「失われたアーク」(モーゼの十戒を刻んだ石板を収めた聖なる櫃)が埋まっているというものまであるから驚き。実際に「アーク」があるかどうかは別にして、何かしら聖なるものが埋まっていてもよさそうな雰囲気は、十分に漂わせている場所である。

玉石社へのお参りを済ませた後、さらに登り続けて玉置山の山頂を目指した。山頂からは、天気が良ければ熊野灘まで望めるとのこと。しかしこのとき空は、晴れてはいるがかすんだような状態で、熊野の山々の先にあると思われる海を、見極めることはできなかった。ところで山頂には、小さなお地蔵さんの祠があった。何でこんな所に?と不思議だったが、沖見地蔵との名前が付いていることからして、海と関係があるものなのかもしれない。そして山頂からは、玉置神社へ戻る道を通らずに、直接駐車場に至る道を降りて行った。Z3に戻ったときには、最初に駐車場に着いてから1時間半が経過した午前10時半になっていた。

 熊野から河内へ 

再び狭い曲がりくねった山道を通って、国道168号へと戻り、河内を目指して北上した。国道168号は、大半が快走路と言えるが、対向車とのすれ違いには大いに気を使うような狭い箇所も所々ある。そのために道路改良工事が行われているのだろうが、この日は、道路を両方向完全に遮断してそうした工事の行われていた場所があったのにはマイッタ。それもちょっと距離をおいた二ヵ所で。両方合わせて二、三十分間停滞するはめになったけど、この日は後のスケジュールに余裕があったのは幸いであった。

さらに北上していたところちょうどお昼時となったので、道の駅「吉野路大塔」(地図中の車マーク)に立ち寄って食事にした。この食事の後で大失敗。道の駅から出るときに、自販機で缶コーヒーを買った。すぐに飲むつもりはなかったが、いつでも飲めるようにとプルトップ栓だけ開けて、ナビ側シート横のカップ・ホルダーに置いた。そしてこの後、缶コーヒーのことはすっかり忘れて、ワインディング・ロードを楽しんでしまった。で、何が起こったか。もうお気付きでしょう。しげの秀一「頭文字D」の拓海くんのようにはいきませ〜ん。コーヒーが缶から溢れまくって、気付いたときには回りにあった地図と眼鏡ケースはコーヒー漬け。ブラックコーヒーだっただけに色も濃くて、今でもその跡がしっかり残ってます・・・トホホ。

そうこうしているうちに時刻は午後1時を過ぎて、Z3は五條市に入った。すると車の通行量が一遍に増えてきた。熊野の山の中から都会に戻ってきたんだナ〜、と実感する。国道168号からは曲がることなく道なりに真っ直ぐ進めば、道はそのまま河内長野方面へと向かう国道310号につながっている。ところが国道310号に入った途端、回りの車がいなくなった。正確に言えば、手前の交差点でほとんどの車は別の道へと進んで行った。五條から大阪方面へ向かうにはこの道が最短路のはずだし、大阪方面へ向かう車も結構いるはずなのに、何でだろう思っていると、やがてその理由がわかった。

熊野の山の中から五條市に出て来た時点で、もうすっかり山道は終わったと思っていたのが間違いだった。国道310号は、金剛山系をまたぐ山越えの道だったのだ。それも、道幅は大半が1車線半ほどしかない。木々に囲まれて眺望も無く、なおかつ曲がりくねっている道が延々と続いていた。唯一の救いは、その道を走っている車の数が少ないことくらい。道を戻って別ルートを行くことも一瞬考えたが、そのまま走り続けた。道を変えなかったのは、何よりもこの後の目的地が、この国道310号沿いにあるから。
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 観心寺 】(地図中の「17」)

そうしてたどり着いたのが、今回の旅の中でお寺訪問は唯一ここだけとなる、河内長野市の観心寺(←お寺のWebサイトが “.com” アドレスであることには違和感を覚えるゾ!)。

観心寺境内にある楠木正成の首塚
観心寺境内にある楠木正成の首塚

南北朝の頃の戦乱を描いた太平記に詳しい人だったら、この寺の名前を聞いてすぐにピンと来たかもしれない。なぜならここは、南朝方の英雄と呼ばれる楠木正成にゆかりの寺だから。さらに、この寺の金堂や仏像は国宝に指定されており、由緒正しい寺なのである。

でも私にとっては、それらはどうでも良いことで、観心寺への関心は全く別の所にあった。それは、この寺の境内に後村上天皇(足利尊氏と共に鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の皇子であって、後醍醐の後を継いだ天皇)を葬った場所、檜尾陵(ひのおのみささぎ)があるから。
なぜ、一部の歴史好きくらいにしか知られていないであろうこの後村上天皇に関心があるかと言えば、実は全く単純なことで、彼の実名が私と同じで「のりよし」だから。ちなみに天皇の名前には、死後に付けられた名前である諡(おくりな)と、生きていたときの実の名前である諱(いみな)がある。後村上天皇の場合に後村上は諡であって、生前彼が後村上と呼ばれていたわけではない。そして彼の実名である諱が「義良」(←これで「のりよし」と読む)。なお「良」の字は、かつて「なが」と読まれていたが、最近の研究では「よし」だそうな(例えば護良親王を、かつては「もりながしんのう」と読んでいたが、今では「もりよししんのう」)。

岡野玲子「陰陽師」で安倍晴明は、名前は呪である(悪い意味で呪いをかけるということではなくて)と言っている。ある意味で名前とは、その人物を縛るものと言えるのかもしれない。漢字が違うとは言え、「のりよし」という同じ音の名前を持つものとして、興味を持ってしまったというわけだった。実は数カ月前に、鳴子温泉から帰る途中で霊山(りょうぜん)という山に寄り道したのも、山の名前に霊的なものを感じたとか、そこの奇岩絶景を見たかったからではなく、この人物がかつて軍事拠点として立てこもった場所だったから。

そうした後村上天皇の陵は、寺の境内の外れにある。寺は広く開けた場所に堂塔が建ち並んでいるのに対し、陵は境内に隣接した山の斜面の中腹のような場所に設けられている。高くそびえた山の木々が視界を遮る中、木々の間を切り開いて作られたかのような幅5mほどの石段の道が、陵へと続く。その石段を5分近くも登って(結構これがシンドイ)、ようやく後村上天皇の檜尾陵に辿り着く。

後村上天皇の檜尾陵
後村上天皇の檜尾陵

陵には、楠木正成の墓にあったようなド派手な献花も無く、ごく質素。この陵の前に立って、今来た石段の方向を見下ろしてみると、外の風景が全く見えない。幅がある石段の道の部分だけでも、その方向には視界が開けていて良さそうだが、道が大きく回り込んでいるためその先が見えない。まるで、死んだ後村上に世の中を見せないようにしているのか、はたまた世の中から死んだ後村上を隠そうとしているのか...

寺の境内に戻ってきてから、記念にと「北斗の塩」と名付けられた塩をいただく。ちなみにこれは、「日本唯一の北斗七星巡礼地である観心寺で特別に一つずつ御祈祷したもの」だそうな。さて観心寺での参拝を終えたことで、今回の旅で是非に立ち寄りたいと思っていた場所は全て回ったことになる。旅はもうほとんど終わった気分。そうした気分のせいか、この後は写真を全く撮っていない。ご容赦を。

 今宵の宿は、奈良ホテル 】(地図中の「18」)

時刻はまだ午後2時を回ったばかり。予定にはない法隆寺などの超有名所に立ち寄ることも、可能かとは思えた。けれど、最後はノンビリにと言う気分が働いて、このまま今夜の宿である奈良公園の奈良ホテル(注:奈良公園で野宿という意味ではなく、皇室御用達の本物の奈良ホテル)へと向かう。

けれど奈良ホテルへの経路は、事前の計画段階では全く決めていなかった。かと言って今さら地図で検討するのも面倒だったので、カーナビに任せてしまった。けどウチのカーナビは、やっぱりお馬鹿。河内長野から奈良方面へ北上する場合、まず国道170号を通るのだけど、この国道は2本が並行して走っている。町々の市街地中心部をつなぐ旧道170号と、市街地中心部を避けてバイパスする新道170号である。当然、新道の方が早く移動できる。しかしウチのカーナビは、たぶん走行距離で判断したんだろうけど、旧道を選択した。このため、交通量が多くて流れの悪い市街地の中を走るはめになってしまった。

途中でそのことに気付き、新道の方に進路を変えようかと思ったが、はたと考えてそれは取りやめた。なぜなら、走っているうちに旧道も悪くないかなと思えたから。信号機では頻繁につかまるし、車の流れも遅いのだけど、市街地中心部を通ることで、その土地に暮らす人々をつぶさに見ることができる。もう一生二度と顔を合わせることはないだろうな、などと考えながら道を行き交う人々を見ていると、ちょっと感慨深いものがあった。

そうは言っていても時間が掛かってしょうがないので、藤井寺ICから天理ICまでは西名阪高速にのった。そして天理からは国道169号を北上した。そしてもう奈良ホテルは間近という所にまで来て、ウチのカーナビ君はまた大馬鹿をやってくれた。ホテルの直前まで来ているはずなのに、交差点で曲がれとの指示が出た。道が混んでいたのでゆっくり確認することができず、ともかくそのまま指示に従って曲がった。さらに再度曲がれとの指示が出されたとき、その先にあったのは古い奈良の街並みの遺物と思えるような狭い路地。なおかつその時は、ちょうど工事もしていて進入不可(後でチェックした結果、仮に工事をしてなくて進入できたとしても、途中で立ち往生してしまったような道であった)。その時点で、もうカーナビの指示は聞き捨てることにした。次の交差点で、勘を頼りにホテルがあると思われる方向に曲がったら、今度その先にあったのは狭い商店街のアーケード、なおかつそこは完全な車両進入禁止。あわてて交差点の中で切り返しをして逆方向に進んだが、その際交差点にいた地元の人々の冷たい視線を感じたのは気のせい?

さてとにもかくにも奈良ホテルに着いて、車を止める場所を探したら、駐車場はほぼ一杯で一番奥の方に止めるはめに。宿泊客が来るにはまだ早い時間のはず。どうやら、ここはこの界隈では由緒のあるホテルのせいか、昼間からいろいろな会合が催されていて人々が集まっている様子。案の定、少し時間が経って街中に外出する際にチェックしたら、駐車場はだいぶ空いてきていたので、車の位置を便利な場所に移動できた。なおここは皇室御用達だけあって、ホテル内の食事も超お高い。だもんだからここには、シングルの部屋に食事無しで素泊まり。それでも、伊勢の神宮会館でツインの部屋に一人で泊まった朝食付き値段よりも、ここの宿代の方が3割ほど高かったけどね。

当初の予定には無かったが、夕食を食べる時間にはまだ早かったので、ホテル近くの奈良公園内にある春日大社を参拝する。もう夕方の時間帯であるせいか、奈良公園内は観光客で混雑するほどではなかった。春日大社への参道でも、人の流れは大半が参拝を終えて帰ってくるところ。手や口を清める手水場(ちょうずば)では、たいがいの神社が龍なのにここでは鹿がくわえた筒から水が流れ出ていて、鹿を神聖視していることを実感。手水場の横には祓戸(はらえど)神社と名付けられた小さな社があり、珍しく各自がセルフサービスで幣(ぬさ)を使って身を祓うようになっていた。回り(修学旅行らしき小学生ばかりだったけどネ)では誰もやってなかったけど、自分はしっかりやってしまった。

本殿では特別参拝料500円を払うと、より近くで参拝できる(ちょっとしたパンフレットももらえる)。けど居合わせた50歳前後のおばちゃんグループがうるさかったので、せっかくの雰囲気がぶち壊し。その一方で30歳前後の一人の女性が、熱心に参拝の記帳をしていた姿はちょっと印象的。

春日大社参拝の後、市内中心部の繁華街へと向かう。直線距離にして2kmほどなので歩けない距離ではなかったが、気分を変えて路線バスに乗ってみた。ずっと自分だけで運転をして来ていた後では、こうして人の運転する車に乗ると、たとえそれが普通の路線バスであってもちょっと優雅な気分になる。ただ、奈良公園を抜けるまでの道が渋滞していて、これだったら歩いた方が早かったかも。

奈良市中心部では、距離にして1kmほど離れたJR奈良駅と近鉄奈良駅との間を結ぶ通り沿いに、繁華街が形作られている。近鉄奈良駅から真南へ延びる「東向き通り」と「小西通り」という2本の通り沿いの繁華街と、JR奈良駅から真東に延びる「三条通り」沿いの繁華街とが、L字型に交差して一つの大きな繁華街となっているのだ。ちなみに、南北に延びる通りなのになぜ「東向き通り」と呼ぶかは意味不明。

夕食をどこで食べようかと考えながら、これら繁華街を歩き回ってみた。けれど事前調査をしていなかったせいもあり、散々歩き回った揚げ句、結局は1軒の豚カツ屋に入った。構えは大きな店であったが、午後6時を回ったばかりの時間、他にお客は四、五名からなるお婆さんたちのグループだけだった。店内が静かだったこともあって、お婆さんたちが属しているらしい何かの団体に関する不満だか愚痴だかを、食事のあいだ聞かされ続けたのにはマイッタ。せっかくのビールと豚カツの味が台無し。

食事を終えて、ホテルに向かって猿沢池に面した三条通沿いを歩いていると、そこには長さ100mほどに渡ってお土産物を扱う屋台が建ち並んでいた。まるで砂糖に群がるアリのごとく、修学旅行の小学生らしき一団がそれらの屋台に群がっていた。貪欲に土産物を求めようとする小学生たちのそうした姿には、思わず圧倒されてしまった。